村上春樹が描く青春との決別 『風の歌を聴け』

 

 

風の歌を聴け』言わずと知れた村上春樹のデビュー作である。1979年の4月、この作品で群像新人文学賞を受賞し、その小説家としてのキャリアがスタートする。今やノーベル文学賞の候補に挙がるほどの作家の偉大なる一歩。

そして今この作品を読み返し、改めてその強烈さに打ちひしがれている。良い意味でも悪い意味でも、やはりこんな作品は村上春樹にしか書けないのであり、見渡す限りの地続きなこの世間とは断絶した奇異な世界観がある。それは1960年代後半から70年代前半という地球規模の強烈なエネルギーに対してのアイロニー。主人公の「僕」がため息をついて奇妙な冗談を口にするだけで世間のイデオロギーは矮小化され、それは常に必死で真剣であろうとする人々へのシニカルなアンチテーゼのようにも見えてくる。故に「こんなものは文学ではない」と酷評する人々の気持ちも十分に理解できるが、一体どこにそこまで人を引き付ける要素があるのだろうか。

 

風の歌を聴け』は意味不明か?

Googleで「風の歌を聴け」と検索すると続けて「意味不明」と表示される。これにはつい笑ってしまったが、それだけ多くの人がこの作品を読んでそう思ってしまったのだろう。しかし何がそう思わせているかは実に単純で、それは細かく切断されたパラグラフがもたらす明確なストーリーの欠如と未解決の謎によるものである。

 

以下、Wikipediaのあらすじ。

絶版になったままのデレク・ハートフィールドの最初の一冊を僕が手に入れたのは中学3年生の夏休みであった。以来、僕は文章についての多くをハートフィールドに学んだ。そしてじっと口を閉ざし、20代最後の年を迎えた。

東京の大学生だった1970年の夏、僕は港のある街に帰省し、一夏中かけて「ジェイズ・バー」で友人の「鼠」と取り憑かれたようにビールを飲み干した。

僕は、バーの洗面所に倒れていた女性を介抱し、家まで送った。しばらくしてたまたま入ったレコード屋で、店員の彼女に再会する。一方、鼠はある女性のことで悩んでいる様子だが、僕に相談しようとはしない。

彼女と僕は港の近くにあるレストランで食事をし、夕暮れの中を倉庫街に沿って歩いた。アパートについたとき、彼女は中絶したばかりであることを僕に告げた。

冬に街に帰ったとき、彼女はレコード屋を辞め、アパートも引き払っていた。

現在の僕は結婚し、東京で暮らしている。鼠はまだ小説を書き続けている。毎年クリスマスに彼の小説のコピーが僕のもとに送られる。

 

これはあまりよくないあらすじの紹介である。鼠の人間性に全く触れられていないし、そもそも『鼠はまだ小説を書き続けている。』との一文が何の脈絡もなく意味不明である。

 と言いつつも読者はそんなこの作品の「物語」や「真意」などいちいち考えて真に受ける必要はない。なぜならこの作品は村上春樹流の「青春との決別」という虚しくも悲しいテーマを、まさにその主人公のすかした口調そのままに「遊び」として表現させたものだからだ。だがその一貫して見えぬ主人公の本心は事の深刻さから目を背けているように見える。いや、作中に深刻な出来事や事実などが現れるわけではないのだが、ふと正気になると気が沈んでしまいそうな事実が背後に潜んでいるというような、そんな空気がどことなく漂っている。徹底されたアイロニーがすべてを「大した事ではない」ものに押しやっているのだ。それはこの作品を覆っている「時代性」に対する作者の眼差しに他ならない。これは「時代」の小説なのである。

 

「それはどんな時代であったか」

この作品で描かれる「時代」を掘り下げてみる。

この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終わる。

日本では1960年の安保闘争から1965年の第一次早大闘争を経て、学生運動は最盛期を迎えたが、1969年1月、東大安田講堂事件から学生運動は下火となり1972年2月のあさま山荘事件をきっかけにその新左翼的闘争は終焉を迎えた。そして世界では泥沼化するベトナム戦争反戦運動、黒人解放運動やキング牧師の暗殺で時代は混迷を極めるが、プラハの春に端を発するソ連共産主義体制の多極化を経て、デタントと呼ばれる緊張緩和状態へと向かうことでその混乱は新冷戦期までは一応の収束を見せるが、第二次世界大戦後に生成された巨大なイデオロギー同士のぶつかり合いの後で、このように様々な出来事をもとにして細分化されてゆく過程の中での混乱の時代である。それは『風の歌を聴け』の続編であり第2作目の『1973年のピンボール』で以下のように語られる。

何人もの人間が命を絶ち、頭を狂わせ、時の淀みに自らの心を埋め、あてのない思いに身を焦がし、それぞれに迷惑をかけあっていた。一九七〇年、そういった年だ。もし人間が本当に弁証法的に自らを高めるべく作られた生物であるとすれば、その年もやはり教訓の年であった。 

そして半世紀が経過した現在、 世界は再び弁証法的に「対立の果て」の平穏を夢見るかの如く皆が頭を狂わせている。反動主義、北欧型社会主義の幻想、ポピュリズム、多様性、フェミニズム、そしてコロナウイルスで瓦解しつつある新自由主義の夢。アイロニカルなこの作品が現代に対しての回答を持ち得ているとは思えないが、目まぐるしく移り変わる世の中に対しての「視点」的な共感は大いに持ち得る。

 

「人はいつ青春を終わらせるのか」

様々な人間がやってきて僕に語り掛け、まるで橋をわたるように音を立てて僕の上を通り過ぎ、そして二度と戻ってはこなかった。僕はその間じっと口を閉ざし、何も語らなかった。そんな風にして僕は20代最後の年を迎えた。

「30歳成人説」の本質は、この作品の冒頭で語られる独白に凝縮されている。

20代、それは大声で叫ぶ人々の声に耳を傾けつつも、自らはその無力さ故に口をつぐんでいるしかない時代である。もちろん自ら能動的に動き、道を切り開くものもいる。しかし人生の各フェーズに敷かれたレールをきっちり走ることを強いられる脅迫的な現代に於いては大多数が沈黙を貫き通している。まるで騒がしく回転するメリーゴーランドをただ黙って見つめているかのようだ。

30歳成人説(30さい せいじんせつ)とは日本の民法成年を満20歳と定めているのに対し、「精神年齢でいけば今の30歳は、昔の20歳くらいにあたる」という考え方のことである。作家村上春樹が唱えている。

村上春樹は「自分が本当にやりたいことなんかそう簡単に分かるものではない、30までは色んなことをやって30になってから人生の進路を決めればよい」という趣旨のことを述べている。Wikipediaより引用)

 

太宰治は1941年、32歳の時に『東京八景』を執筆し、己の青春に別れを告げた。それから約40年後、村上春樹は29歳の時に執筆した『風の歌を聴け』によって青春を終わらせている。それからさらに40年が経過した今、この作品は「アラサー」を迎えた人々へ何を語るのか。実態のない過去に対する慰めか、これからの決断か、福音にも成り得るが変容する余地を失った自らを葬るための小説にも成り得る。 

 

アンチ村上春樹

 村上春樹を嫌いだと公言する人は多い。理由は人それぞれであるだろうが「芸術性が低い」「純文学の文体ではない」などといった抽象的で独りよがりな批判もさることながら「やれやれ系」的な一人称主人公の口調を子馬鹿にする風潮によるところが強い。

※「やれやれ系」のすかした口調による文体は村上春樹が敬愛するカート・ヴォネガット・ジュニア作品の浅倉久志伊藤典夫の訳に影響されてのものである。これらの作品を読めばその影響が如何に強いか簡単に理解できる。

しかし僕は形式に捕らわれた好き嫌いは勿体ないことだと言いたい。実際に自分は中学、高校の頃に村上春樹作品を何周もするほどに読み耽っていたが、大学生となり様々な作家に出会うに従い、その存在を完全に放り投げた上に、上記したような世間に流布するつまらぬ批判すらも口にしていた。ただそれから5年以上の歳月を経て、今再びその面白さに取りつかれている。それは現代を渦巻くあまりにも多すぎる情報量と出来事の連鎖について行けぬ自分への慰めであり、許しを請う行為でもあるように感じるからである。混乱の世の中を俯瞰して「やれやれ」と口にすることくらい何も悪いことではないはずだ。

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

  • 作者:村上 春樹
  • 発売日: 2004/09/15
  • メディア: 文庫
 

 

 

華倫変という漫画家と100日後に死ぬ光うさぎ (『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』考察 )

苦しみってのはただ噛みしめるように なれていくしかないのかな・・・ 

 これは『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』という漫画の中のとあるセリフ。作中、岡山三奈という人物が述べる「唯一の本音」とされている言葉である。そしてこのセリフは28歳でこの世を去ったこの漫画の作者である華倫変の本質そのものであるように思える。

 

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『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』には『忘れる』『あぜ道』『下校中』『木々』『ねむる部屋』『コギャル 危ない放課後』『酒とばらの日々』『とにかく現世はくだらなすぎる』そして表題作の『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』という9編の作品が収録されている。どれも幸の薄いような壊れてしまったような女性が苦境の中を生きてゆく様を描いたもので、その雰囲気は曰く言い難いほどに不快かつ不穏な空気が蔓延している。もはや救いを求めることすら滑稽に思われるほどの虚無に支配されているのである。

 

今回取り上げるのはその表題作で「光うさぎ」と名乗る若い女性がブログで100日後に自殺するのだと宣言し、カウントダウン形式にその過程を記録しネットに公開するというものである。そう、つい最近社会現象にまでなった『100日後に死ぬワニ』とどこか似通った構成であることから一部の人々の間でこの作品が思わぬ形で再び注目を浴びることになったのである。

 

産まれてきたからには大地だろうが他人の心だろうが爪跡のこさないとむかつかない? 

まぁ産まれたこと自体むかついてるからこんなバカなことしてるんだけど

この捨てセリフと共に光うさぎが自死するまでの100日間が開始される。彼女が死を望む背景は詳しくは語られず、上記のようにただ産まれてきたこと自体にむかついているということだけが語られる。この段階での様子はただの目立ちたがりのようにも見え、死ぬことに対しての真剣さのようなものは一切感じられない。

"ネットにはもううんざり" そう言って現代社会を嘆いているうちに最初の3日間が終わる。その間にホームページの掲示板に書かれるのは「死ぬまでに一回させて」「いいからセクスさせろ!!キチ害!」という言葉。匿名掲示板ではありがちな反応ということもあり、彼女は3日目にして飽きてしまう。

残り95日、飼い犬の「ネチケ」が紹介される。しかし、ネチケはノラ犬として生きていけるほど逞しくないらしく "私が死ぬ前に殺すべきかな?" と悩んでいる様子が描かれる(そもそもノラで生きていけるような犬種には見えない。チワワ?)。

残り90日、検索しても誰も自分のことを気にしていないことに気が付き落ち込む。

時間は飛んで残り65日「今日は特別な日です!」と正装した彼女が涙ながらに語ったのは愛犬のネチケを殺したことだった。首を絞め殺したのか、ベランダでは吊り下げられたネチケの影がゆらゆらと揺れている。

残り60日、例え愛犬を屠ろうが誰からも返信はなく、やはり誰も自分のことを気にしていないのだと改めて痛感する。

残り50日、この頃から様子がおかしくなり始め「朝から世界が圧迫してくる!」「みんな砂!味覚ゼロ!」といった発言がみられ、精神的に追い詰められている様子が伺える。そしてついには「・・・・おとうさん!・・・・おかあさん!・・・・死ぬ前に一度ヘロインやってみたかったです!」と言い出す始末。しかしネットの反応は....

 

「まだこいつ、死んでないの?」

 

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人は真剣な態度がコメディ染みてくると危険である


残り40日になると「わたしに共感する人は異常者です。即刻入院してください。」と述べ、自暴自棄になった彼女は自分の性器をネットに晒す。残り30日になると山田花子(24歳で投身自殺した漫画家)の絶筆である『魂のアソコ』に掲載されている詩を朗読し、またも性器を晒したり掲示板へ心無い書き込みをする人々に対しては"童貞は死ね" "逝ってくれ" "臭い" "うざい" "IQが低い" "勝手にアニメイトに貢いでくれ"と暴言を吐きまくる。しかしいつの間にか過疎っていたはずの掲示板は人で溢れており、光うさぎとのやり取りは活発になってくる。

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ところが、残り28日になると急に我に返り「どうすれば私のことみんな忘れないでいてくれるの?どんなこともする 私を忘れないで!」と嘆き、孤独なままの死を酷く恐れている様子が描かれる。そして残り15日になったころから光うさぎは突如”調子がいい”と語り、目を閉じたまま遠くのことを考え "音を奏でる光のこと" という抽象的で平和的なイメージを考えるに至り、その表情は穏やさに満ちてくる。そんな光うさぎの精神状態に呼応するかのように掲示板へ書き込む人々の反応も彼女に同調し始め、ついには「死ぬなんて考えちゃだめです。生きるべきです。」という書き込みすらも現れる。

そしてあと10日、3日、2日、1日....。

 

以下、残り3日からの光うさぎと掲示板にいる人々のやり取りである。

-良かったね

「ありがとう」

-すっきりしたかい?

「もうじきできるよ」

-また、会えるかな?

「そりゃ!!もちろん!!すぐに すぐ会える」

 

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フラッシュバックしてゆく過去の記憶


「前日」から「今日」にかけて、彼女は穏やかに自分自身が死ぬ意味を見出し始める。そしてネットの住人たちはそんな光うさぎを受け入れ始める。「いいからセクスさせろ!!キチ害!」と言っていた人々はもうここにはいない。

フラッシュバックする記憶。インターネットの高速回線を通じて彼女の思いは様々な人や場所を駆け巡り、その記録はネットを浮遊しつづける。そしてそれは誰も真実を思い出すことのできない夢のようなものに変わりつつああった。

 

「やっと今日がきて やっと私は全て 許せるようになったのです」

 

"今日" を迎え、セーラーを服を身にまとった彼女はそう切り出して、最後のメッセージを伝える。

「残された人たちのことも考えない自分勝手な奴と思われるかも知れません。でもそれは違います。これが・・・こうすることが私と世界との ギリギリの接点だっただけなのです。

そうして光の中に消えてゆく光うさぎ。うっすらと見える背景、そこは樹海のようにも見える。最後のページはノイズで乱れる画面、そして彼女の後を追うようにして光の中に消えてゆく愛犬ネチケ。そうしてこの物語は幕を閉じる。

※ネチケとはネットワーク・エチケットのことを意味する言葉である。つまり光うさぎに絞め殺され、彼女と同様に樹海に消えてゆく "ネチケ" が傍観者である掲示板の人々や我々だとしたら?

 

華倫変希死念慮

華倫変の漫画には常に死の予感や空気のようなものが漂っている。時にそれは美的感覚となり、コメディとなり、そして血なまぐさいものとなる。しかしそれらは華倫変希死念慮の変化であるように思える。死を美しく思う感情、命など虫けら同然のゴミのようなものだと思う感情、そして一切の希望がない悲痛な死への恐れ、それらが発露して作品へと昇華される。そのダイレクトにアウトプットされる感情の強度は、もがき苦しんでいるにも関わらず自ら破滅へと突き進まずにはいられない登場人物たちの感情と密接にリンクしている。日陰に死神がじっと佇んでいるような、そんな心地よい虚無の世界では決して救いを求める必要はなく、死という「その時」だけが最終到達点として美しく輝いている。

 

「死に囚われる人々」

フロイトが提唱した「死への欲動(デストルドー)」という概念がある。人には死へ向かおうとする欲動があるという考え方である。そもそも生命を維持することを目的とするはずの生物が死を求めるのはなぜか。それは生命を持つものは、生命を維持するために過度の緊張状態を強いられることになるからである。つまりその緊張状態から逃れたいという欲動が生まれる。これが「死への欲動」いわゆる「タナトス」であり「エロス(生の欲動)」との対立概念である。この作品で光うさぎは死を前にして人生のフラッシュバックを経験する。それはまさに「死への欲動」の表れである。フラッシュバックによって、救いようのない自分自身の過去へ強制的に帰される体験は、人に無への開放を強く求めている。それは死へ向き合う光うさぎの真剣さそのものである。

 

「不安という防御反応」

こんな漫画にもかかわらず、なぜ人はこの苦しみに心地よさを感じてしまうのか。それは日常に漂う不安の仮想的可視化と孤独への肯定的感情である。

人はなぜ不安を感じるのか、それは耐え難い現実を前にしたときその恐怖を少しでも和らげるための防御反応であると、SF作家のフィリップ・K・ディックは言っている(この小説のサブタイトルもまたディック作品のパロディであるのだ)。日常は様々な恐怖に溢れている。いつ何時どんな恐怖が襲ってくるかわからない。だからこそ事前にその恐怖を察知し、備えるのである。つまりそれが不安となる。我々はこの漫画を読んで不安が普遍的であるものと感じることができる。登場人物たちは常に何かに怯え、何かが欠如してその穴埋めに必死なのである。我々はそこに強い共感を覚える。不安は死と同様にどんな人間にも等しく訪れる、恐怖は自分だけのものではないのだ。そしてそれは孤独の肯定にも繋がっている。なぜなら不安の解消先としての依存先が見つからないからである。人は孤独であることに不安や恐怖を覚えるが、日々孤独である人々は人との関りが盛んな世界にも恐怖を覚える。こうしたアンビバレントな感情の普遍性を良く表現できている点もまたこの作品の魅力であり心地良さなのである。

 

最後に、華倫変の漫画はどれも20年近く前の作品である上に再販されていないので、どの作品もかなりのプレミア価格になっている。だが去年からKindleで電子化されたので大枚を叩く必要はなくなった。気になる人はぜひ読んで欲しい。 

高速回線は光うさぎの夢を見るか?

高速回線は光うさぎの夢を見るか?

 
カリクラ 華倫変倶楽部 上

カリクラ 華倫変倶楽部 上

 
カリクラ 華倫変倶楽部 下

カリクラ 華倫変倶楽部 下

 

 

 

糸井重里の「責めるな。」から見る怒りの矛先

 新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的な流行により、政治、経済、そして人の生活様式が問い直されている。思わぬ形で曲がり角に差し掛かった資本主義、不測の事態に混乱する政治、そしてコロナウイルスがもたらす恐怖とストレスで人々は冷静さを失ってしまっている。

 そんな中、Twitterを中心に「怒り」というものの在り方が問われている。要は今の政治(主に日本政府)に対して納得できない人々が強い口調で政治家や政策を一斉に非難し攻め立てるその一方で、

「怒りに支配されて自分を見失っている」

「批判ばかりでうんざりする」

とその怒りを咎める層も出現し、対立し始めたのである。それはコピーライターの糸井重里が以下の内容をポストしたことで完全に火がついてしまったような状況である。

 このツイートは一定の賛同を集めたが、積極的な政府批判を行う層からは強いバッシングを受けたのだ。

 

バッシングをする側の主な意見は以下である。

 

糸井氏に向けてではないが以下のように述べる人も居る。 

 

 これらの批判から読み取れるのは「権力へ隷従することの危険性」で「不平不満を言わず黙って男に尽くすのが女のあるべき姿」とされていた時代へのフェミニズム的な反発に近い傾向があるように思える。日本は「一億総中流」的な国民意識がいまだに高い。これが意味するところとしては、平和ボケによる政治に対する関心の薄さである。このような実態が投票率の低下を招き、政権の暴走を招いていると考える層はまず間違いなく糸井重里のツイートに反感を持つのではないだろうか。

 ただここで気を付けるべきなのは、糸井重里は決して「黙れ」と言っているわけではないことである。彼は「責めるな。」と言ってるだけなのであり、決して人々に黙っていることを強要しているわけでも政権に隷従しろと言ってるわけでもないのである。もっとも糸井重里のツイートには主語がなく、具体的に何を指しているわけでもない。このツイートが単に包括的なトーンポリシング的なものだとしたら、反発している人々は曲解しすぎている可能性がある。ここが我々が冷静にならなければならないポイントのはずで、このような微妙な認識のズレが大きな対立を生んでいるように思える。

※そもそもトーンポリシングだと指摘すること自体がトーンポリシングなのであり、言葉として機能不全を起こしている。もはや議論を不毛なものにする最悪のワードだと言ってもいい

 

 人は別にどんな意見や政治的なスタンスを持とうが、それは「個人の勝手」なのであり、その勝手は許されているものであり、また人に強要すべきものでも、されるべきものでもないはずではないだろうか。つまるところ「責めるな。」という発言がもはや特定の人々を責めているという自己矛盾を起こしているのであり、それに反発している人たちも「こうあるべき」というスタンスの強要をしている様態であるのだ。個人的な意見を言わせてもらえば、別に冷笑的なスタンスをとっていようがそれも個人の勝手なのであり、それを無責任だと言い切る姿勢こそ傲慢であるし、ある意味これも全体主義に繋がる考え方である。このような事態を通して多様性のある社会とは一体どのようなものなのだろうかと深く考えさせられる。

 要は安倍政権を擁護しようが、水商売の人々を保証の対象外にすることに賛成しようが、現金の一律支給に反対しようがそれらは許されたことであるにも関わらず、その意思を表明するや否やネット上で酷いバッシングを受ける可能性がある今の時代は少なくとも多様性のある社会に逆行していると言える。さらにTwitterというツールでは、そのような人間の「政治的なスタンス」という一面性だけが切り取られているにも関わらず、その人自身が全否定されているかのようだ。

「声をあげて世の中を変えることができる」というのはとても良いことである。加えて一致団結することは混乱の時代を生き抜くことに必要ではあるが、それが同調圧力ではあってはならない。自分が思う正しさだけを信じて発言し、行動するしか術はないのである。

加速する時代のヴェイパーウェイヴ

 マーク・フィッシャーという批評家に出会ってからというもの、僕の頭の中は「如何にして資本主義的がもたらす憂鬱から抜け出せるか」という考えに囚われている。その応答として加速主義というものがある。加速主義とはイギリスの哲学者ニック・ランドがウォーリック大学で教鞭を執っていた時代に自らが立ち上げた学生主体のサイバネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit)、通称CCRUでの活動を源流とする思想で、既存の資本主義システムをドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』に於ける「脱領土化」的なプロセスによって推し進め、解体を伴いながらも深化させるべきであるとするものである。わかりやすく言えば、資本主義のオルタナティブとしての何か別の経済的形態ではなく、資本主義そのものの思想を深め、加速させることで既存の状態を脱しようとするポスト資本主義的思想である。資本主義経済の下、テクノロジーが発達してAIが人間にとってかわる時代も「加速主義」的未来の姿である。

※実際のところ、加速主義は哲学的な流派というよりはネットを中心としたカルチャーの一種という見方が強い

※なお、ニック・ランドに関して言えば、電子決済事業者『PayPal』の創業者でとして知られるピーター・ティールや『Moldbug』名義で活動するアメリカのブロガー兼起業家のカーティス・ヤーヴィンらの右派リバタリアンたちの思想を基に、2012年に発表したテキスト『暗黒啓蒙』が新反動主義の推進力になったりと、なにかと議論の対象となることが多い人物ではあるが、そのあたりは木澤佐登志著『ニック・ランドと新反動主義』(星海社新書)を参考にすることで詳しく理解できる

 

 そんな加速主義のBGMとも言われる音楽がある。それがヴェイパーウェイヴ (Vaporwave)である。ヴェイパーウェイヴは2010年~2011年ごろから突如インターネット上に出現したムーヴメントで、現在まで破壊と創造を繰り返しながら複雑に枝分かれしつつ、現在も人の目を掻い潜りながらネットの海を漂う怪しげな音楽である。サウンド的には90年代にデパートやスーパーマーケットの中で流れていた店内BGM(匿名の音楽と言われるミューザック、エレベーターミュージックとも言われている)などをモチーフに、ピッチを下げてクラックルノイズとごちゃまぜにしたような不気味なアンビエントだったり、80年代のシティ・ポップAORをサンプリングしたバブリーな空気感を漂わせるリミックスだったりと、特に一定の形はないが、共通しているのはミレニアル世代にとっては胸が張り裂けそうになる郷愁と、人の気配のない機械的な無機質さ、そしてサイケデリアである。

 

 

 

 そのサウンドはまるで、人々を20年以上前にタイムスリップさせ、ソファに寝そべり、寝ぼけながら深夜の天気予報(心地よいBGMを伴う)をぼんやりと眺めているときのよう気分にさせる。

 

※これは自分もはっきりと記憶してるが、2010年頃から「MySpace」や「Bandcamp」「Soundcloud」などインターネットで音楽を提供するサービスの登場により、 オンライン上に自主製作した音源をアップロードする文化が急激に発展した。自分もバンド活動を行っていたので、録音した楽曲を前述したようなコミュニティに投稿し、海外の知らない人からコメントを貰ったりしては一喜一憂していた

 

 また、そのビジュアルも特徴的で、一言で言えばそれは「過去の未来的なモチーフ」である(未来的な過去ともいうべきだろうか)。一昔前のサイバーパンク的な日本のイメージ、間違いだらけの怪しげな直訳日本語、セル画アニメやWindows95の単調なグラフィカルユーザーインターフェース、まさに失われた未来のイメージがそこにはある。

 

 ヴェイパーウェイヴは、過去日常に溢れていた光景やサウンドを脱領土化させている。そうして現れたものは、どこか無機質で不気味な、ディストピア的かつ廃墟的なサウンドである。そういった意味では加速主義的ではあるが、その実態は過去の未来的モチーフの再利用によるノスタルジーへの収束である。現代思想2019年6月号において河南瑠莉氏は加速主義とヴェイパーウェイヴについて以下のように述べる。

加速にはスピードの方向性、つまりベクトルがともなわない限り、記号のレペティション(繰り返し)という円環に陥りがちです。

(中略)こうした文化的想像力、過去に向かって「前進」し、失われた未来へと永劫「回帰」しようとする憑在的な美学と呼べるかもしれません。

過去に向かって前進する感覚、これは現代に蔓延するレトロブーム的な感覚と一致する。過去はもはや消費されたものなのではなく、消費の対象となっているのである。

その上で河南瑠莉氏は続けてこう述べる。

加速主義的な美学が宿命的に、ヴェイパーウィブ(Vaporwave)のように無限のレペティションのサイクルから出られない、減速的な美学になっているのだとしたら、すごく皮肉なことだと思います。

 

 ヴェイパーウェイヴは果たして「未来」へと加速してゆく向かう音楽なのか、それとも過去と現在を行き交うだけの減速しつつある「亡霊」に過ぎないのだろうか。ピッチコントロールされた不気味なサウンドは女性の声を男性的なものに変え、時代性すらも消し去る。そうして生まれた空白は我々に何かを問いかけているようである。

 

 マーク・フィッシャーが指摘したように、もはや未来は失われてしまったのだろうか?いずれにせよ、ヴェイパーウェイヴが過去をモチーフにしていることには変わりがない。では「過去」を置き去りにするような、文化的に新しいものはこれから生まれてくるのだろうか?テクノロジーの先端ともいえるスマートフォンではVHS風のノイズにまみれた動画が撮影できる「VHS Cam」やインスタントカメラ風の写真が撮影できる「HUJI」などのアプリが若者に流行した。これらはカメラの性能をデチューン(退化)させるものであることに着目すると、「現在」「過去」といった時間軸が交差して時代性を消失させていることがわかる。そのようにして、ノスタルジーにとらわれた現代から加速して抜け出すことは果たして可能なのだろうか?自分にはもはや現代が「加速」なのか「循環」なのか判別不能な時代性と複雑に枝分かれした思想、人類の生活こそがヴェイパーウェイヴに飲み込まれているように思える。

ポスト真実の時代

ポスト真実の政治』という言葉がある。

その意味について、Wikipediaによると次のような記載がある。 

政策の詳細や客観的な事実より個人的信条や感情へのアピールが重視され、世論が形成される政治文化である。

昨今、SNSの発達がもたらしたものは、客観的な事実よりも個人的且つ感情的な意見がより世論に近いものとして作用する、不確実性の高い『ポスト真実の政治』的な世の中である。

例えばTwitterに於ける「炎上」もその実態は不確実な要素によるものが多い。犯罪行為やガイドライン違反など、火の元となる明白な事実があるならまだしも、個人的な意見としての社会通念上許されるか否か、つまり「常識」的に間違っているという指摘に対する単なる「共感」によって世論が形成され、炎上に繋がっているのである。

それは行き過ぎたポリティカル・コレクトネスやフェミニズムに於ける議論でよく見られる光景ではないだろうか。

※直近では『宇崎ちゃん献血ポスター問題』や『ライブライブ!みかんPRポスター問題』などの、いわゆるツイフェミ vs アンチ・フェミニスト表現規制問題や『あいちトリエンナーレ2019 中止問題』の保守 vs リベラルの問題などが挙げられる

 

我々はこのような議論の対象になるような「異物」を目の前にしたとき、まず何に従ってそれが正しいのか不適切なのか判断するだろうか、おそらくは自分のポリシーに照らし合わせるはずである。だが、そのポリシーを形成するものは一体何なのだろうか。正しい答えは存在するのだろうか。

 

若木民喜の哲学漫画『ねじの人々』では「答え」について以下のように語られる。

誰がどこから見ても疑いのない答え。好み、時代、知識に左右されない絶対的な回答。そんなものは存在するんだろうか?

 この問いに対して、主人公は無言のままである。ただ、追ってこう語られる。

 君に知って欲しかったのは世の中の「答え」がいかにいいかげんかということだ。

 

きっと絶対的な答え(真理)などはない。ニーチェの言葉を借りるなら「あるのは解釈のみ」である。ただ、『我々は 頭のネジを回してコギト(考える人)になる必要がある』と、この漫画では語られる。

 

いま、曖昧な空気が世の中に蔓延している。そしてそれが曖昧な常識を形成しつつある。そんな常識が思考の根拠となるのはとても危険ではないか。ならばこの空気を押しのけて生きるためには「思考」して確固たるものを獲得するしかない。つまりすべての感情を支配下に置いて「考える人」にならなければならないのだ。このブログで自分が追い求めてゆくのは、軽率な共感を捨て、曖昧なものに惑わされない生き方をする為の筋道を見つけ出すことである。ということで毎回ひとつのテーマを取り上げて、自分なりの筋道を共有できればと思う。