糸井重里の「責めるな。」から見る怒りの矛先

 新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的な流行により、政治、経済、そして人の生活様式が問い直されている。思わぬ形で曲がり角に差し掛かった資本主義、不測の事態に混乱する政治、そしてコロナウイルスがもたらす恐怖とストレスで人々は冷静さを失ってしまっている。

 そんな中、Twitterを中心に「怒り」というものの在り方が問われている。要は今の政治(主に日本政府)に対して納得できない人々が強い口調で政治家や政策を一斉に非難し攻め立てるその一方で、

「怒りに支配されて自分を見失っている」

「批判ばかりでうんざりする」

とその怒りを咎める層も出現し、対立し始めたのである。それはコピーライターの糸井重里が以下の内容をポストしたことで完全に火がついてしまったような状況である。

 このツイートは一定の賛同を集めたが、積極的な政府批判を行う層からは強いバッシングを受けたのだ。

 

バッシングをする側の主な意見は以下である。

 

糸井氏に向けてではないが以下のように述べる人も居る。 

 

 これらの批判から読み取れるのは「権力へ隷従することの危険性」で「不平不満を言わず黙って男に尽くすのが女のあるべき姿」とされていた時代へのフェミニズム的な反発に近い傾向があるように思える。日本は「一億総中流」的な国民意識がいまだに高い。これが意味するところとしては、平和ボケによる政治に対する関心の薄さである。このような実態が投票率の低下を招き、政権の暴走を招いていると考える層はまず間違いなく糸井重里のツイートに反感を持つのではないだろうか。

 ただここで気を付けるべきなのは、糸井重里は決して「黙れ」と言っているわけではないことである。彼は「責めるな。」と言ってるだけなのであり、決して人々に黙っていることを強要しているわけでも政権に隷従しろと言ってるわけでもないのである。もっとも糸井重里のツイートには主語がなく、具体的に何を指しているわけでもない。このツイートが単に包括的なトーンポリシング的なものだとしたら、反発している人々は曲解しすぎている可能性がある。ここが我々が冷静にならなければならないポイントのはずで、このような微妙な認識のズレが大きな対立を生んでいるように思える。

※そもそもトーンポリシングだと指摘すること自体がトーンポリシングなのであり、言葉として機能不全を起こしている。もはや議論を不毛なものにする最悪のワードだと言ってもいい

 

 人は別にどんな意見や政治的なスタンスを持とうが、それは「個人の勝手」なのであり、その勝手は許されているものであり、また人に強要すべきものでも、されるべきものでもないはずではないだろうか。つまるところ「責めるな。」という発言がもはや特定の人々を責めているという自己矛盾を起こしているのであり、それに反発している人たちも「こうあるべき」というスタンスの強要をしている様態であるのだ。個人的な意見を言わせてもらえば、別に冷笑的なスタンスをとっていようがそれも個人の勝手なのであり、それを無責任だと言い切る姿勢こそ傲慢であるし、ある意味これも全体主義に繋がる考え方である。このような事態を通して多様性のある社会とは一体どのようなものなのだろうかと深く考えさせられる。

 要は安倍政権を擁護しようが、水商売の人々を保証の対象外にすることに賛成しようが、現金の一律支給に反対しようがそれらは許されたことであるにも関わらず、その意思を表明するや否やネット上で酷いバッシングを受ける可能性がある今の時代は少なくとも多様性のある社会に逆行していると言える。さらにTwitterというツールでは、そのような人間の「政治的なスタンス」という一面性だけが切り取られているにも関わらず、その人自身が全否定されているかのようだ。

「声をあげて世の中を変えることができる」というのはとても良いことである。加えて一致団結することは混乱の時代を生き抜くことに必要ではあるが、それが同調圧力ではあってはならない。自分が思う正しさだけを信じて発言し、行動するしか術はないのである。