無職の幻想と生きている手応え

以下の文章はすべて、無職として親の脛を齧りながら生きていた数年前の話である。

 

 

ビル・ゲイツザッカーバーグのような大金持ちも鬱病になることはあるのか?」

 

 朝4時過ぎ、真っ暗な部屋の中で朝日に照らされた窓が白くぼんやりと浮かび上がってくるのを横目に、何度も自問自答したその問いの答えを探す。しかし、ロラゼパムが効いてきた頭は明確な答えを見つけられず、吐き気に似た眠気が胸元からせりあがり、僕は眠りに落ちる。

 

 無職時代に一番考えていたことは金と鬱病のこと。狭いベッドの上で冒頭のクエスチョンを何度も考えた。不謹慎な話だが、もしビル・ゲイツ鬱病だったら世界中の人々が救われるのではと考えた。鬱病ビル・ゲイツを見て、人々は「やはり金で解決できない物事がこの世にはあるんだ!」と歓喜の涙を流すのではないかと。しかしそんな期待とは裏腹に、いくらネットを漁っても資産家が鬱病を患っているという情報は少なかった。尋ね人は「金持ちの鬱病患者」、どこかにいませんか!僕は検索キーワードを書き換える度に暗い気持ちになった。

※ハリウッドスターが鬱病に悩まされた経験をインタビューで話している記事なんかは多かったのだが、それはそれで嫌な気持ちになった。彼、彼女らは演じることが仕事なのであり、そういった告白もキャラ作りなのではないかという疑念が募り信用できなかったのである

 

 ある日、父の勧めで都庁の近くにある若者専用のハローワークに出向いていたときのこと、新宿中央公園を通りかかると胸ポケットに造花を差し込んだホームレスがリュミエールの解説本を読んでいた。この姿を見て、彼はニーチェで言うところの「君主道徳」なのだと感じた。彼らは物事の良し悪しという判断に外界を必要としないのだ。それに比べて自分は自分は外界に対する反動でしか自己の立ち位置を判断できない「道徳奴隷」だった。「この世界」という巨視的なスケールで物事を考えた際、関係性から断絶された「善悪」を判断できるようになるためには何が必要なのだろうか。それを見つけられない限り、自分は金だけではなく自己すらも消失してしまうのではないかという底知れぬ怖さに襲われたが、悠々自適な(のように見える)ホームレスの存在は金の有無が鬱病に関わらないのかもしれないという期待のようなものを感じさせた。

 

 それから数日経ったある日のこと、この日はハローワークの担当者に「履歴書を書いて持ってきてね」と言われていたが、僕は約束をすっぽかして神保町の古本屋を徘徊していた。その帰り道、理由はわからないが僕はごく自然に信号無視をしてしまい車に轢かれかけた。耳をつんざくようなクラクションとドライバーの怒りに満ちた目によってなかなかに危険な事態であったと感じとることができたが、イヤフォンから垂れ流されている陽気なアニメソングのせいで事の深刻さが理解できないでいた。とりあえず気を引き締めるために既定の倍ほどのエスタロンモカ12を口中に放り込み、入手したばかりのウィリアム・ギブスンの「スプロール三部作」を小脇に抱え帰宅を急いだ。当初はレアな作品を入手できた喜びが何もかもを打ち消していたが、電車の中で改めて「ヤバかった......」という危機意識がずいぶんと遅れてやってきた。そして沈んだ気持ちのまま最寄り駅に到着し、人気のない地下道を歩いていると、反響する足跡が幾重にも重なって自分自身の輪郭を象ってゆくような感覚にとらわれた。こんな無職でも信号無視をすれば怒る人がいて足跡だってちゃんと響いている、それは安心感のような、情けなさのような曰く言い難い気分だった。

 

生きている手応えがあれば、きっと幸せになれた。

 

そのとき、ふと『かぐや姫の物語』でそんなセリフがあったことを思い出す。かぐや姫は都で優雅な暮らしなどせずとも、山奥で気の知れた仲間たちと過ごしたほうが「幸せになれたはず」と感じた。しかしそれはきっと貧しさや惨めさが多分に含まれた人生になったはずだ。要は「痛み(苦痛)」を受け入れることで「生きている手応え」を感じ取るのだ。まるで映画『ファイト・クラブ』のようじゃないかとも思った。殴り合ってボコボコにされて痛みに喘ぎ、生きている実感を得る、痛みが自分の輪郭を研ぎ澄ましてゆく。そうして僕の中でますます「働くべきじゃない」という気概が高まってゆくのを感じた。無職という立場がもたらす周囲からの痛々しい視線、将来の不安、積み重なる年齢と共に消える選択肢、そしてまたしても映画のタイトルが頭に浮かぶ。

 

『不安が魂を食いつくす』

 

そうだ、まさに不安が魂を食いつくそうとしている! 自分が日々感じているのは不安に噛り付かれた際の痛みとグロテスクな咀嚼音だ。

 

 こうして僕は金と鬱病の関係、ホームレスや自分の存在が同一線上に並んだことでこれらの問いに対してある程度納得することに成功したが、次にやってくるのは「覚悟」の問題なのだとすぐに気がついた。その痛みに耐える「覚悟」である。かぐや姫は地球での記憶を消し去ったが、それはある種の「死」である。自分も好きなように生きて自死すればかぐや姫が望んだように生きることができるかもしれない、しかしそんな自分の幻想は『ファイト・クラブ』のラストのように撃ち殺されるべきなのだろうか。

 

 この時はまだなにも決断していなかったが、現在の僕は会社員としてゾンビのように働いていることをここに報告しておく。