死刑とは何か。殺されなければならない囚人たち

絞首台まであと40ヤードくらいだった。わたしは自分の目の前を進んで行く囚人の、茶色い背中の素肌をみつめていた。腕を縛られているので歩き方はぎこちないが、よろけもせず、あの、インド人特有の、決して膝をまっすぐ伸ばさない足どりで跳ねるように進んで行く。ひと足ごとに、筋肉がきれいに動き、一掴みの頭髪が踊り、濡れた小石の上に彼の足跡がついた。そして、一度、衛兵に両肩をつかまれているというのに、彼は途中の水たまりをかるく脇へよけたのだ。 

 この記述はジョージ・オーウェルが当時イギリス植民地であったビルマで警察官として勤務していた際、とある死刑の執行に立ち会ったときのものである。少し長いが、死刑によってもたらされる生と死の深い断裂を的確な言葉で捉えているので引き続き引用する。

妙なことだがその瞬間まで、わたしには意識のある一人の健康な人間を殺すというのがどういうことなのか、わかっていなかったのだ。だが、その囚人が水たまりを脇へよけたとき、わたしはまだ盛りにある一つの生命を絶つことの深い意味、言葉では言いつくせない誤りに気がついたのだった。これは死にかけている男ではない。われわれとまったく同じように生きているのだ。彼の体の器官はみんな動いている━━━腸は食物を消化し、皮膚は再生をつづけ、爪は彼が絞首台の上に立ってもまだ伸びつづけているだろう、いや宙を落ちて行くさいごの10分の1秒のあいだも。彼の目は黄色い小石と灰色の堀を見、彼の脳はまだ記憶し、予知し、判断をつづけていた ━━━水たまりさえ判断したのだ。彼とわれわれはいっしょに歩きながら、同じ世界を見、聞き、感じ、理解している。それがあと2分で、とつぜんフッと、1人が消えてしまうのだ━━━ひとつの精神が、ひとつの世界が。

(『オーウェル評論集』より『絞首刑』から引用)

 

 5年に1度、内閣府は死刑制度の是非についての世論調査を行っている。2020年の1月に最新の結果が出たが、前回同様で約8割の日本国民が死刑に賛成しているという内容であった。死刑についての情報がほとんど公開されておらず、「死刑とはなにか」をほとんど理解していない国民が大多数であるにも関わらずである。

 哲学者の萱野稔人は著書『死刑 その哲学的考察』のなかで、普遍主義と文化相対主義において死刑のあり方を考察している。普遍主義とは文化的な違いをも超えた絶対的な正義があるとする立場のことで、文化相対主義とは文化によって価値観は異なるのだから「絶対的な正しさなどない」とする立場のことである。国際的には死刑は廃止されつつあり、ヨーロッパを中心に人権を無視した野蛮な行為だとしている。しかし、「死んで詫びる」文化は今の日本人にも強く根付いているようで、2002年5月に行われた「欧州評議会オブザーバー国における司法と人権」という国際会議において当時の森山眞弓法務大臣が「死刑は日本の文化」と発言し物議を呼んだ。ヨーロッパを中心とした死刑廃止の潮流を普遍主義だとすれば、死んで詫びるべきだとする日本は文化相対主義のものとにその道を突き進んでいる。そして国民の多くがそれを支持している。

 

透明性の高いアメリカの死刑制度

 2008年5月6日に『文化放送報道スペシャル』として死刑執行時の音声が公開された。それは1955年に録音された古い音声ということもあって大部分は不鮮明かつ聞き取りにくいものであるが、死刑囚がそれほど緊張している様子もなく最後の一服をしながら刑務官と談笑している様子や、執行時の激しい落下音を聞き取ることができる。さらにそこから約2年後の2010年8月27日、当時民主党政権下で法務大臣を務めていた千葉景子により東京拘置所の刑場が報道陣に公開された。これにより、現在ではGoogleで検索をかけるだけで簡単に刑場の様子を見ることができる。しかし、刑務官すらもほぼ立ち入ることができないとされる教誨室や執行室が公開されるというのは衝撃的な出来事であった。※千葉景子は死刑反対の立場をとっている

  では先進国では数少ない日本と同じ死刑存続国であるアメリカはどうか。結論、日本とは比べ物にならないほどに死刑の情報公開が進んでいる。NPO団体である『死刑情報センター(Death Penalty Information Center、通称DPIC)』では死刑に関する様々な情報が公開されている。そこにはアメリカにおける死刑の歴史、現在の処刑方法、死刑の抱える問題や今後の執行予定、過去の執行など掲載される情報は多岐にわたる。さらに州によっても情報公開は積極的に行っており、例えばノースカロライナ州(現在執行停止中)では死刑囚の顔写真、性別、生年月日、被害者の氏名、処刑方法(薬物注射、ガスを選択可能)やさらには囚人番号まで公開されてる。愛知県弁護士会の報告によると、執行は金曜日の深夜2時で、その週の火曜日になると死刑囚は執行室の隣にある監房に移され、2人の刑務官と共同で生活を始める。そこでは自由に生活が可能で、家族と最後の面会も認められている。

執行当日、午前1時になると所長が告げにきて、死刑囚は執行室隣のベッドに縛り付けられます。1時50分に執行室に入り、執行停止の有無を確認して、午前2時に、まず睡眠薬を注射し、次に呼吸障害を起こす薬物を注射します。その間、立会室のカーテンは半分閉め、死刑囚の顔は見えるが、刑務官の顔は見えないようにします。

(愛知県弁護士会ホームページ『アメリカの死刑モラトリアムと刑務所を見て』から引用)

 執行の際は被害者遺族、マスコミ、弁護人、警察や検察など計16人が立ち合い可能となっている。ガラス越しに執行の様子を見届けるのだ。

 

※余談だが、WIREDには死刑囚の「最後の食事」を紹介した記事がある。 死刑囚が最後に食べたいものをオーダーできるというテキサス州の伝統であるらしいが、記事を見てみると案外普通の食事が多い。ここから見て取れるのは死刑となるような人物でも最後はごく「普通」の「日常」に立ち返ろうとする様子だろうか。もちろん最後に望む食事のメニューにまで猟奇的な雰囲気を醸している死刑囚もいるのだが......

 

 なお、アメリカは現在、全50州のうち22の州で死刑を廃止しており16の州で死刑制度を維持、その他は法律上死刑制度を残してはいるが、執行が停止している状態である。つまり死刑が廃止されている州のほうが多い状態となっている。直近だとコロラド州が2020年7月より死刑制度を廃止したが、この時点で存命していた3名の死刑囚は刑が変更され終身刑となり、命拾いをすることとなった。

 

ブラックボックス化してゆく日本の死刑制度 戦後から現代

 では日本の死刑制度はどうだろうか、それは戦後と現在では大きく状態が異なる。オウム真理教をテーマとしたドキュメンタリー映画『A』などで知られる映画監督の森達也は著書『死刑』の中で、一度死刑が確定したものの再審請求で無罪となった「免田事件」の免田栄へのインタビューを行っている。そこで語られる内容は現在では信じられない内容である。

 

 免田栄は1948年の熊本県人吉市で起きた殺人事件(祈祷師の一家が標的となり、夫婦2人が殺害され、娘2人が重症)の容疑者として、事件翌年の1949年に逮捕された。1950年、熊本地裁で免田に死刑判決が下され、控訴するも福岡高裁はこれを棄却、さらに上告するが、最高裁はこれも棄却し、1952年に死刑が確定した。その後、自白の強要やアリバイが認められたことなどから再審請求が認められ、1983年に無罪が確定(一度死刑が確定し、その後無罪となるのは日本初のケースだった)するが、それまで34年6ヵ月もの間投獄されることとなった。その間、彼は死刑囚の仲間たちが次々に執行されてゆくのを目にしている。

 

執行の伝達はだいたい朝食後です。時間にしたら朝8時半くらいに20人ほどの看守が舎房に来ます。だから直食後の1時間か1時間半くらいのあいだ、死刑囚の舎房は、針を落としてもその音が聞こえるくらいに静かです。執行がないときの朝食後は運動の時間です。看守の『運動用意』という声を聞いたならば、冷たかった氷にお湯をかけたときのように、緊張がすーっと融けてしまう。自然と顔がほころぶ。運動場に行くために廊下に整列するとき、みんな笑顔になっています。

(森達也著『死刑』より引用)

 

 仕事を抱える現代人は朝を嫌う。目覚めは、逃れようのない日常と対峙する瞬間だ。ベッドから身を起こし、徐々に輪郭を帯びてゆく意識は次第に不快なものとなり、低い音を立てて走る電車に揺られて労働者は運ばれてゆく。ただ、嫌な仕事が片付けば、その日の仕事が終われば、週末が訪れれば、ひと時の安堵を得ることがきでる。憂鬱も緊張も、生きている限りは一時的にせよそれらから逃れることができる。ただ、死刑がもたらす緊張にはその先がない。苦痛を乗り越えたその先の世界に、自分は存在しないのだ。ああ、苦しかった、これで毎朝身を削るような思いをしなくて済む......そう思うことすらもできない。苦痛がピークに達した瞬間に世界は途切れ、そこで終わるのだ。自分には想像もできない世界である。現にこのプレッシャーによって精神を破壊され、不眠や拒食症に陥る死刑囚も多いそうだ。

 

 免田栄が投獄されていた時代は、死刑囚を縛る規則は今よりもずっと少なかったようで、確定死刑囚となっても手紙のやり取りや面会は署長の裁量に任されていた。つまり実質的にはほぼ容認されていたのである。また、信じられない話だが、死刑囚同士で野球チーム結成し、さらに慰問で訪れたプロ野球選手と対戦することもあったようだ。この頃は執行の伝達は数日前に行われていたこともあり、家族と最後の面会をしたり、前夜にはお別れ会が開催されていた。※前述した『文化放送報道スペシャル』でその時の様子を聞き取ることができる。しかし、1980年前後から死刑囚との交流にかかわる規則は強化され、面会のハードルも上がり(たとえ面会が認められても月に1回15分間で、面会者には厳しい手荷物検査があり、内部でのやり取りを記録することやメディアに公開することは固く禁じられている)、手紙のやり取りに関してもペンの色が指定されていたり、受刑者の手に渡る前に刑務官による中身の確認があるなど、無意味かつ厳しい規則のもとで行われる。さらに問題なのは確定死刑囚となった後にこれらが一切禁止されることである。当然野球など許されるはずもなく、死刑囚同士交流を持つことすらも禁止されている。あくまでこの措置は死刑囚の心情の安定を保つためだとか、刑務官の負担を減らすため(2020年現在確定死刑囚は110名)だとも言われているが、死刑確定後も面会や手紙のやり取りを希望する受刑者は多い。ジャーナリストや弁護側からしてみれば言わずもがなだが、被害者遺族からも交流を継続させてほしいと要望がでたこともある(大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件/名古屋保険金殺人事件など)。特に遺族が「なぜ事件を起こしたのか」という明確な回答を求めている場合、その答えがはっきりとしないまま、また反省の言葉を引き出せないまま犯人の死刑が執行されてしまった場合、これは被害者遺族の感情を無視していると言えるのではないだろうか。一切の交流を絶たせることが本当に多くの人のメリットになっているのだろうか。

 

自ら命を絶つ死刑囚

 2020年1月26日早朝、前橋スナック銃乱射で確定死刑囚となっていた元暴力団会長の矢野治が拘置所内で首を切って死亡しているのが見つかった。確定死刑囚の自殺は平取猟銃一家殺人事件の犯人である太田勝憲が札幌拘置所で入浴中、剃刀で首を切って自殺した1999年11月8日以来である。

 そもそも死刑の事前通告を取りやめたのは死刑囚の自殺を防止する目的があったと言われている。前述した免田栄の獄中ノートにも1975年、執行当日に自ら命を絶った受刑者に関しての記載があるが、記録と照らし合わせるとこれは福岡現金輸送車職員毒殺事件の津留静生と思われる。この事件は死刑を事前通告から当日通告に切り替えるきっかけになったものとされている。目前に控えた「その瞬間」に耐えきれなかったのか、それともその日その日の「朝」を乗り越える恐怖に精神が耐えきれなかったのか、戦後自ら命を絶った受刑者は4名ほど存在している。

 もちろん各拘置所は死刑囚の自殺を防止するために様々な対策をとっている。単独での入浴も限られているし(週2回、1回15分)、部屋も監視されている。「どうせ死刑になるのなら別に同じじゃないか」と考える人もいるかもしれないが、彼らは国家が定める法の下に「殺され」なければならないのである。殺されなければ、それは「処罰」にはならないからである。

 

当日の朝

 2018年7月6日、オウム真理教元代表松本智津夫(麻原彰晃)含め、教団の元幹部ら計7名の死刑が同時に執行された。午前8時41分、日本テレビが速報で「松本死刑囚ら死刑執行手続きを開始」と報じると、各局臨時特番の放送を開始。そして執行が行われたとの情報が入り次第、幹部たちの名前と顔写真がプリントされたフリップに「執行」のシールが貼られてゆくという異様な光景が繰り広げられた。ではその日、実際には何が行われていたのか。

 死刑囚は午前7時に起床する。その後刑務官たちによる確認作業が行われ、7時25分より朝食となる。通常「執行」の通達が行われるのはこの朝食の直後となる。7時40分、食事を終えた松本智津夫は一息ついたであろうタイミングで刑務官たちの不気味に近づく足音を耳にすることになる。「出房」刑務官たちはそう彼に声を掛け、連行する。テレビで目にする過去の姿よりも痩せこけ、髪は丸坊主、自力で排泄もできずオムツを着用し、面会に来た娘たちの前で自慰行為を行うほどに精神に異常をきたしているような状態であったが、連行される際は「チクショー!」と声をあげたと報道されている。

「遺品や遺体の引き取りはどうする?妻や子供たちがいるんだろう」

「ちょっと待って」

「妻、長女、次女、三女、四女、誰でもいい」

「四女」

「四女でいいんだな?」

「......グフッ」

 このようなやり取りをしたのが7時53分。執行が行われたのは午前8時と言われている。自らの死を告げられ、それに直面するまで僅か20分。彼は朝食を口にしながらこれが最後の食事になるかもしれないと考えたりしたのだろうか。松本智津夫教誨を受けないとされていたのでその後はすぐに立たされ、白い布で目隠しをされたのだろう。あとはその闇の中で、死を待つばかりである。

 死刑はその後、通常以下のような手順で行われる。教誨室の一角を占めるアコーディオンカーテンが開き、執行室が現れる。死刑囚は2人の刑務官に両脇を支えられながら執行室に足を進め、四角く縁どられた部屋の中央、とある地点で足を止める。その頭上には滑車が取り付けられており、そこからは先端が輪となっている白いロープが垂れ下がっている。死刑囚は目隠しをされているので目にすることはできないが、執行室の正面はガラス張りになっており、そこからは検察官、検察事務官、署長が立会人を務めることになる(第477条 死刑は、検察官、検察事務官及び刑事施設の長又はその代理者の立ち合いの上、これを執行しなければならない)。立ち合い室からは執行室とその地下が見渡せる作りになっているらしい。その後、体格の良い刑務官に手足を縛られ、最後にロープを首に掛けられると、後は合図を待つのみとなる。そして「押せ!」という号令とともに隣接しているボタン室に控えていた若い3人の刑務官が各々目の前にある黒いボタンを同時に押すと、激しい音を立てて死刑囚の立っていた地点の床が開き、その体は約4mほど落下する。4m、かなりの高さである。死刑囚の体は激しくバウンドするので、下で控えている刑務官がそれを受け止める。落下の加速度と自身の体重が一気に首へ集中し、甲状軟骨や舌骨、頚部脊椎が砕かれる。同時に首の筋肉や頸髄も断裂し、頭部と胴体を結ぶ神経の伝達は途絶え、一瞬にして意識を失うとされている。しかし絞首刑から生還した人間などいないので、それが本当かどうかは知る由もない。そして息が絶えるまで、30分間ただひたすら待つのである。

 

 起床から1時間後、死の宣告から20分後、このあまりにもスピーディな執行は死の恐怖を和らげるためなのだろうか。余計なことを考えずに死へ身を投じることができるという優しさか、それとも贖罪のために必要な恐怖なのだろうか。

 

殺されなければ意味がない

 先ほど述べたように、死刑囚は「執行」されなければならない。自殺は許されないのである。死をもって償うというのは、被害者遺族の手に代わって国家が死の鉄槌を下す行為である。「人を殺してはいけない」誰しもそう教えられるが、国はその権力をもってして罪人を殺める。一見矛盾しているようにも見えるが、多くの第三者は被害者遺族の心中を察してこの事実を「仕方がないことだ」と黙認している。この世界に生きる我々は悪人に対してそれ相応の罰が与えられなければ安心や納得ができないという感情を抱いているのだ。そうして罪人には自らに課せられた「死刑」という恐怖によって自らの罪を自覚し、恐怖に怯えることが必要とされているのである。また、その他の要素として、死刑は遺族にある一定の「区切り」をもたらす。つまり死刑の執行は傷を癒すために必要なある種の時間を与えてくれるのである。遺族は犯人と同じ空気を吸いながら生きることすら苦痛なのだから。

 このようにして死刑は継続される。「国民の8割が死刑制度の維持を支持している」これは間違いなく民意である。しかし、それは死刑の実態を正しく理解してのことだろうか? 死刑の意味をちゃんと考えての事だろうか? それとも抑止力のことを考えてのことだろうか? 死刑囚の実態がほとんど公開されていないにも関わらず、声高に「死刑は必要」と言えるだろうか? 僕はあえてここで民意とは反するケースも述べておく必要があるように思える。それは罪を認め、改心した死刑囚と面会をした多くの弁護士、ジャーナリスト、そして場合によっては被害者遺族までもが「救ってあげたい」と口にしているという事実だ。面会を重ねる中で、犯人の心変わりを認めて死刑執行を取りやめるよう嘆願書を提出する遺族までいる、我々はその意味を考える必要がある。そしてそこにこの制度の課題があり、未来があり、答えがあるように思える。最後に、埼玉・熊谷4人拉致殺傷事件で死刑となった(執行済)尾形英紀の手記を引用する。ここから感じる正直な気持ちこそ、死刑という制度についての、各々の答えがあるように思える。

俺の考えでは死刑執行しても遺族は、ほんの少し気がすむか、すまないかの程度で何も変わりませんし、償いにもなりません。

俺個人の価値観からすれば死んだ方が楽になれるのだから償いどころか責任逃れでしかありません。

死を覚悟している人からすれば死刑は責任でも償いでも罰ですらなく、つらい生活から逃してくれるだけです。

だから俺は一審で弁護人が控訴したのを自分で取り下げたのです。

死を受け入れる変わり(原文ママ)に反省の心をすて、被害者・遺族や自分の家族の事を考えるのをやめました。

なんて奴だと思うでしょうが死刑判決で死をもって償えと言うのは、俺にとって反省する必要のないから死ねということです。

人は将来があるからこそ、自分の行いを反省し、繰り返さないようにするのではないですか。将来のない死刑囚は反省など無意味です。

(青木理著『絞首刑』より引用)