フォークナーが描くアメリカの暗部『八月の光』

耳をすましていると、その音楽の中に彼自身の過去を讃える声が聞こえるように思えるー彼自身の土地、彼自身の捕らわれた血に対する讃(ほ)め歌、すなわちそれは彼が生れて生きている土地の人々、何事をも争わずに喜びも破滅も逃避もできない人々への讃め歌なのだ。

(ウィリアム・フォークナー著『八月の光』より引用)

 

#BlackLivesMatter 通称BLM、『黒人の命は大切だ』、または『黒人の命を守れ』とも意訳されるこのハッシュタグが作られ、人種差別撤廃を訴える運動が巻き起こったのは今から7年前の2013年、フロリダで17歳のアフリカ系アメリカ人の少年トレイボン・マーティンがヒスパニック系の白人警官であるジョージ・ジマーマンに射殺された事件がきっかけである。そしてその運動はまたも白人警察官による過剰な拘束により圧迫死したジョージ・フロイド事件よってピークに達しつつある。そんな事件が巻き起こった当日、僕は偶然にもある小説を数年ぶりに読み返していた。それは「黒人/白人」というアイデンティティがもたらす差別と疎外を描いたフォークナーの代表作のひとつ『八月の光』である。

 

 この物語はアメリ禁酒法時代の1930年、南部にある架空の街ジェファスンを舞台に、見た目こそ白人だが『自分には黒人の血が流れている』と自称する男ジョー・クリスマスが黒人奴隷制度廃止を訴える一家の末裔であるジョアナ・バーデンを殺害し、屋敷に火を放ち逃亡するも捉えられ、リンチにされ殺されるという事件を中心に展開するとある4人(クリスマス、リーナ、ハイタワー、バイロン)の物語である。

 僕はこの作品の最初の数ページを読んだだけでアメリカ南部の退屈で田舎くさい夏の風景や、目に刺さるような砂埃の感覚がリアルに感じられ、呆気にとられてしまった。それはこの作品が包含する込む虚しくも乾ききった風が一気に吹き込んでくるゆえのものである。

 

リーナがジェファスンにたどり着いたとき、物語は幕を開ける

あたしアラバマからやってきたんだわ。アラバマからずっと歩いて。ずいぶん遠くまで来たのねぇ。

 アラバマから親切な人々の助けを借りながら何週間も歩いて旅をするハタチの若い妊婦リーナがお腹の子の父親であるルーカス・バーチを探して(リーナの妊娠を知り逃亡)ジェファスンにたどり着くところから物語は始まる。彼女が到着したその日、ジョアナ・バーデンの屋敷が焼け、黒煙が立ち昇っていた。物語はこの日を起点として様々な人の過去に、そして未来へと複雑に枝分かれしながら展開する。

 

 リーナはお腹の子の父親であるルーカス・バーチがジェファスンの製版工場で働いていると聞きつけてその場所を訪れたが、そこにいたのはバイロン・バンチという似た名前の小柄な中年男であった。彼女は当てが外れて落胆するが、バイロンは彼女に一目ぼれをしてしまう。バイロンはなんとか彼女を引き留めようと、いま街で起こっている屋敷の火事について、そこに住んでいたバーデン嬢のこと、屋敷の離れにある小屋に住んでいたクリスマスとブラウンという男はつい最近までこの製版工場で働いていたことを話すが、話の特徴から彼女はそのブラウンと呼ばれる男がルーカス・バーチなのだと気付く。

 

クリスマスという男の過去 

 そして物語は過去へと遡る。この作品の中核となる、ジョー・クリスマスの出自についてである。親を持たぬクリスマスは孤児院で育つが、5歳のときにひょんなことから院内で栄養士を務める女性の情事を目撃してしまう。密告を恐れた彼女はクリスマスに黒人の血が流れていることを院長に吹き込む。こうして自らの血とアイデンティティめぐるクリスマスの戦いは早くも開始されてしまうのだ。その後、クリスマスは厳格なカルヴァン主義の夫婦に引き取られるが、教義問答を暗記できないと食事も与えられず養父に殴られるなど虐待を受けながら育つ。そしてある日、街で出会った給仕係の女(実態は娼婦)を相手に童貞を捨てる。それからは夜中にこっそりと家を抜け出してはその女に会いに行く日々が続く中で、彼は自分に黒人の血が流れていると彼女に告白するが、冗談を言うなと相手にされない。しかしある日の夜、クリスマスが女とダンスホールにいると突如養父が現れる。クリスマスが夜な夜な家を抜け出したことに気付き、後をつけてきていたのだ。養父は2人に対して『去れ!イゼベル!去れ!淫売婦め!』と激しく罵るが、それに激昂したクリスマスは彼を椅子で激しく殴打し、その場を逃げ出す。それからクリスマスは女と結婚してこの街から逃げ出す算段を立てたが、この事件の主犯として女の取り巻き連中からリンチにされた挙句、女にまで『畜生め!この阿保!あたしをこんな騒ぎに引き込んで、—あたしがいつも白人なみにしてやったというのに!白人なみにだよ!』と罵倒され見放されてしまう。そのようにして行き場を失ったクリスマスは放浪の日々を送ることとなる。

 

悲劇の舞台に立つ人々

 ある日、空腹に耐えかねたクリスマスはジェファスンの大きな屋敷のキッチンに忍び込み、食べ物を漁っていた。養父を殴り倒し、放浪の旅に出てからは15年もの月日が流れていた。そこに住んでいたのはジョアナ・バーデンという40歳を過ぎた中年女性であったが、キッチンで盗みを働く浮浪者同然のクリスマスを見ても動じず、それどころか屋敷のはなれにある小屋までも住みかとして貸し出し、クリスマスと男女の関係に近い仲となる(バーデンはクリスマスと出会うまで処女であった)。それからクリスマスはジェファスンで製版工場の職を得て、同じく流れ者であるブラウン(ルーカス・バーチ、時期を同じくして製版工場で働き始める)を小屋に呼び込むと、共同生活をしながらウイスキーの密売も始めたのである。こうして放浪の日々は終わりを告げた。

 バーデンは北部出身で黒人奴隷解放主義者の孫であり、彼女の祖父と兄はその運動のために殺されていた(北部の人間が南部で奴隷解放運動をするということはそれほどまでに価値観の相違があり、危険であることを示している)。そして彼女もまた『ニグロラヴァー』と呼ばれながらも黒人たちに対して熱心に社会的支援を行っていた。しかしバーデンはクリスマスと出会ってからというもの、性的な欲求や更年期により情緒不安定となり、次第に宗教へと傾倒し、クリスマスはそんな彼女から逃げ出すようになる。そしてついにある日、バーデンはクリスマスに銃を突きつけ、彼に黒人として生きる道を選び、自分の仕事のパートナーとなることを求めるとともに、神へ懺悔することを強要するのである。カルヴァン主義者の養父から宗教を理由とした虐待を受けていた経験から懺悔を拒絶したクリスマスはバーデンを剃刀で殺害し、屋敷を後にする。彼女の遺体は首が辛うじて繋がっている状態であった。当初は同居人かつ仕事仲間のブラウンも逃走を図ったが、犯人に1000ドルの賞金が掛けられていると知るや否や賞金欲しさに再び街へ舞い戻り、クリスマスが犯人だ、自分は賞金を受け取る権利があるのだと主張を始める。その後クリスマスは七日間の逃亡の末にモッタウンという街で捉えられジェファスンに連れ戻れ去るが、裁判の日に逃亡。逃げ込んだ先はハイタワーという街の人々から見捨てられた元牧師の家であったが、彼は後を追ってやってきた愛国主義者(白人至上主義者)の州兵に5発の弾丸を撃ち込まれた挙句、性器を切り取られ惨殺される。

 

 

クリスマスのアイデンティティをめぐる旅

わたしはハリウッドで最初の本格的な映画監督と呼ばれるD・W・グリフィスが撮った、『国民の創生』(1915)というフィルムを思い出した。南北戦争の直後に成り上がりの混血児が、白人の上流階級の美少女を襲おうとして、K・K・Kによって私刑にされ、少女は無事に救出されるという物語である。信じられない差別的な話だが、南部出身のグリフィスにとって、何の疑問でもない題材だったのだろう。

(四方田犬彦著『ハイスクール・ブッキッシュライフ』より引用) 

  

 クリスマスは養父を殴り倒した後、放浪の旅へと出るが、その過程のなかで象徴的なエピソードがある。彼の旅の行程は南はメキシコ、北はシカゴやデトロイト、そしてまた南部ミシシッピへと戻ってくるという道筋を辿るが、クリスマスがアメリカ南部で娼婦と一晩を共にする際、自分は黒人なのだと告げずにはいられない妙な性癖を抱くようになる。その結果として彼は激しく罵倒されるか暴力を振るわれるかどちらかなのであるが、対してアメリカ北部では『あらそう?』と大して気にも留められなかったのである。これは南北戦争を軸としたアメリカの分断を明確に示しているシーンと言える。奴隷の開放を目指して戦った北部と、奴隷存続のために戦った南部の違い、結果的にこの内戦では北部が勝利し奴隷制度は崩壊したが、南部の人間が黒人を見る目は簡単には変わらなかったはずなのである。しかし、クリスマスは自分が黒人だと告げても何の気ない態度を示す北部の女に激怒し、以後もその事実に長く苦しめられることになる。つまり彼は自分が黒人の血を持っていることが原因で苦々しい経験をしてきたわけであるが、その経験自体、自分自身を表徴するもの、つまりアイデンティティとして確立していたのだ。ただ実のところ作中ではクリスマスに本当に黒人の血が流れているかどうかは明確には語られていない。加えて本人もそのことが確証のあるものではないことを承知しているが、自分には黒人の血が流れていると盲信し、行きずりの人々に自分が黒人であると告白せずにはいられないその性癖を考慮するとクリスマスの抱えるアイデンティティの混沌さが見えてくる。それはサディスティックさとマゾヒスティックさを兼ね備えた暴力性とでも言えるだろうか。

 しかし北部ではそんな混沌に満ちたアイデンティティさえ軽くあしらわれてしまったことで自分の人生の、これまでの歪な苦しみすらも否定された気になってしまったのだろう。北部のリベラルな空気はクリスマスを受け入れて救済するのではなく、アイデンティティを消し去り、存在を無に還してしまうものであったのだ。

 尚、この章の冒頭で引用に使用した四方田犬彦氏の記述は100年ほど前の、アメリカ南部ではごく当たり前とされていた価値観を的確に表している。同時にそれはアメリカ南部に潜む闇の歴史でもある。つまりクリスマスが娼婦たちに対して『俺は黒ん坊だ』と告白した際の周りの反応は当時の南部ではごく当たり前のものだったのだ。それを踏まえると、彼が持ち得る暴力性は居場所の確保のためであるように思える。黒人にも白人にもなれないのであれば、そのどちらも破壊して自分だけの場所を確立するしかなかったのではないだろうか。

 

黒檀彫刻と似た女と夫婦のように暮らした。夜はベッドの中で彼女の傍らに横たわり、眠らずに、深く呼吸をはじめたものだ。彼はそれをわざとするのだ、自分の白い胸が肋骨の下でますます深く息を吸い込むのを感じ、見まもりさえして、体内に黒い臭気をーー黒人の暗くて不可解な思想や存在を吸い込もうと努め、同時に吐く息ごとに体内から白い血や白い思想や白い存在を追い出そうとしていた。

(『八月の光』より引用)

 

 そのようにして『自分はやはり黒人として生きるべきなのだ』と自覚したクリスマスはとある黒人女と夫婦同然の生活を始めることになる。その日々の中で、彼は黒人女と寝る際は、己に潜む黒人の血を濃くすべく大きく息を吸い、そして自分自身から白人の要素を捨て去るべく大きく息を吐き出すが、彼女の体臭に耐えられず苦しんでしまう。白人たちからは黒ん坊と罵られ、いざ黒人として生きようにもそれは体が拒絶してしまう。黒人と白人、アイデンティティの狭間に揺れて居場所を見つけることができないクリスマスは疲弊してゆく。ただそうして破滅へと突き進むことで何物にもなれないクリスマスが何者かでいることができたのではないだろうか。

 

どのようにしてこの作品を読むべきか、作品が持つボリューム感とスピード感

 余談であるが、僕は並行して複数の本を読むことには否定的である。ただ、机の上や本棚に積まれ続ける未読の本を横目にしては感性や知識に対する姿勢というものをつい考えてしまう。自分が思うに、読書という体験は張り巡らされた意識の網をくぐる行為なのであり、本を読み終えることではその網から(一旦)抜け出すことが許可されるのだ(その本が自分に与える影響を鑑みると、すっかり読み終えた後だとしてもその世界から抜け出せない場合は多分ある)。つまり本を読み終わらない限り、その網から抜け出せず、場合によっては絡めとられた状態のままになってしまう。つまり本を読みかけのまま放置するというのは思考のなかに常に消化不良の問題を抱えているという状況なのである。そして最近の自分はというとずっとその状態なのである。思考の断片だけが中途半端に散らばったままでありながら、それらが澱み、輪郭すらも失い始めてきたので「これは良くない......」ということで、2冊だけなら並行して読んでもOKとして自分の中にあるルールを改定するに至った。

 そのようにして僕はフォークナーの『八月の光』を時にはメインに、時には別の本を読みつつ片手間にと1ヵ月半もかけてだらだらと読み続けていたのである。ただこの作品に至ってはそんな読み方をするべきでなかったと言える。総ページ数は700ページ近いかなりの長編である上、複雑な時間軸と技法としての『意識の流れ』を把握しながら読み進めるのはかなり骨のいることではあるが、それぞれの人物視点で描かれる物語そのものはシンプルであるし、細やかな感情の移ろいが描かれているので時間をかけて読むべき作品でないと言える。なぜなら中断時間が多くなると登場人物たちの感情の変化が掴みにくくなり、全体像がぼけてくるのだ。ただ、物語の佳境に差し掛かる頃になると読者を襲うのは呼吸すらも忘れてしまうような緊張感と計り知れない喪失感なのであり、それらは読書の中断を許容しない。否が応でも現実世界の時間を忘れ、作品に耽るしかなくなるのである。また、 昨今の世界情勢がそうさせているかはわかないが、数年ぶりの再読であったにも関わらず僕を襲ったこの作品の喪失感は以前よりも遥かに強いものであるように感じられた。

 

 ※また今回はクリスマスだけに焦点を絞ってこの記事を書いたが、別の機会にハイタワー牧師やリーナ、バイロンについても考察を行えればと思う。

八月の光 (新潮文庫)

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