加速する時代のヴェイパーウェイヴ

 マーク・フィッシャーという批評家に出会ってからというもの、僕の頭の中は「如何にして資本主義的がもたらす憂鬱から抜け出せるか」という考えに囚われている。その応答として加速主義というものがある。加速主義とはイギリスの哲学者ニック・ランドがウォーリック大学で教鞭を執っていた時代に自らが立ち上げた学生主体のサイバネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit)、通称CCRUでの活動を源流とする思想で、既存の資本主義システムをドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』に於ける「脱領土化」的なプロセスによって推し進め、解体を伴いながらも深化させるべきであるとするものである。わかりやすく言えば、資本主義のオルタナティブとしての何か別の経済的形態ではなく、資本主義そのものの思想を深め、加速させることで既存の状態を脱しようとするポスト資本主義的思想である。資本主義経済の下、テクノロジーが発達してAIが人間にとってかわる時代も「加速主義」的未来の姿である。

※実際のところ、加速主義は哲学的な流派というよりはネットを中心としたカルチャーの一種という見方が強い

※なお、ニック・ランドに関して言えば、電子決済事業者『PayPal』の創業者でとして知られるピーター・ティールや『Moldbug』名義で活動するアメリカのブロガー兼起業家のカーティス・ヤーヴィンらの右派リバタリアンたちの思想を基に、2012年に発表したテキスト『暗黒啓蒙』が新反動主義の推進力になったりと、なにかと議論の対象となることが多い人物ではあるが、そのあたりは木澤佐登志著『ニック・ランドと新反動主義』(星海社新書)を参考にすることで詳しく理解できる

 

 そんな加速主義のBGMとも言われる音楽がある。それがヴェイパーウェイヴ (Vaporwave)である。ヴェイパーウェイヴは2010年~2011年ごろから突如インターネット上に出現したムーヴメントで、現在まで破壊と創造を繰り返しながら複雑に枝分かれしつつ、現在も人の目を掻い潜りながらネットの海を漂う怪しげな音楽である。サウンド的には90年代にデパートやスーパーマーケットの中で流れていた店内BGM(匿名の音楽と言われるミューザック、エレベーターミュージックとも言われている)などをモチーフに、ピッチを下げてクラックルノイズとごちゃまぜにしたような不気味なアンビエントだったり、80年代のシティ・ポップAORをサンプリングしたバブリーな空気感を漂わせるリミックスだったりと、特に一定の形はないが、共通しているのはミレニアル世代にとっては胸が張り裂けそうになる郷愁と、人の気配のない機械的な無機質さ、そしてサイケデリアである。

 

 

 

 そのサウンドはまるで、人々を20年以上前にタイムスリップさせ、ソファに寝そべり、寝ぼけながら深夜の天気予報(心地よいBGMを伴う)をぼんやりと眺めているときのよう気分にさせる。

 

※これは自分もはっきりと記憶してるが、2010年頃から「MySpace」や「Bandcamp」「Soundcloud」などインターネットで音楽を提供するサービスの登場により、 オンライン上に自主製作した音源をアップロードする文化が急激に発展した。自分もバンド活動を行っていたので、録音した楽曲を前述したようなコミュニティに投稿し、海外の知らない人からコメントを貰ったりしては一喜一憂していた

 

 また、そのビジュアルも特徴的で、一言で言えばそれは「過去の未来的なモチーフ」である(未来的な過去ともいうべきだろうか)。一昔前のサイバーパンク的な日本のイメージ、間違いだらけの怪しげな直訳日本語、セル画アニメやWindows95の単調なグラフィカルユーザーインターフェース、まさに失われた未来のイメージがそこにはある。

 

 ヴェイパーウェイヴは、過去日常に溢れていた光景やサウンドを脱領土化させている。そうして現れたものは、どこか無機質で不気味な、ディストピア的かつ廃墟的なサウンドである。そういった意味では加速主義的ではあるが、その実態は過去の未来的モチーフの再利用によるノスタルジーへの収束である。現代思想2019年6月号において河南瑠莉氏は加速主義とヴェイパーウェイヴについて以下のように述べる。

加速にはスピードの方向性、つまりベクトルがともなわない限り、記号のレペティション(繰り返し)という円環に陥りがちです。

(中略)こうした文化的想像力、過去に向かって「前進」し、失われた未来へと永劫「回帰」しようとする憑在的な美学と呼べるかもしれません。

過去に向かって前進する感覚、これは現代に蔓延するレトロブーム的な感覚と一致する。過去はもはや消費されたものなのではなく、消費の対象となっているのである。

その上で河南瑠莉氏は続けてこう述べる。

加速主義的な美学が宿命的に、ヴェイパーウィブ(Vaporwave)のように無限のレペティションのサイクルから出られない、減速的な美学になっているのだとしたら、すごく皮肉なことだと思います。

 

 ヴェイパーウェイヴは果たして「未来」へと加速してゆく向かう音楽なのか、それとも過去と現在を行き交うだけの減速しつつある「亡霊」に過ぎないのだろうか。ピッチコントロールされた不気味なサウンドは女性の声を男性的なものに変え、時代性すらも消し去る。そうして生まれた空白は我々に何かを問いかけているようである。

 

 マーク・フィッシャーが指摘したように、もはや未来は失われてしまったのだろうか?いずれにせよ、ヴェイパーウェイヴが過去をモチーフにしていることには変わりがない。では「過去」を置き去りにするような、文化的に新しいものはこれから生まれてくるのだろうか?テクノロジーの先端ともいえるスマートフォンではVHS風のノイズにまみれた動画が撮影できる「VHS Cam」やインスタントカメラ風の写真が撮影できる「HUJI」などのアプリが若者に流行した。これらはカメラの性能をデチューン(退化)させるものであることに着目すると、「現在」「過去」といった時間軸が交差して時代性を消失させていることがわかる。そのようにして、ノスタルジーにとらわれた現代から加速して抜け出すことは果たして可能なのだろうか?自分にはもはや現代が「加速」なのか「循環」なのか判別不能な時代性と複雑に枝分かれした思想、人類の生活こそがヴェイパーウェイヴに飲み込まれているように思える。