ゾンビは最高だ、と器官なき身体は歌う

1947年11月28日、アルトーは器官に対して宣戦布告を行う。神の裁きと訣別するために。「私を縛りたければそうするがいい、だが、器官ほど無用なものはないのだ。」(ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著『千のプラトー 資本主義と分裂症』308頁)

 

 アルトーによるこの宣告に呼応するように、ウィリアム・バロウズは『裸のランチ』で以下のように述べる。

 

人間の身体はまったく腹立たしいくらい非能率的だ。どうして調子の狂う口と肛門のかわりに、物を食べるとともに排泄するようなすべての目的にかなう万能の穴があってはいけないのだ? 鼻や口は密閉し、胃は詰め物をしてふさぎ、どこよりも第一にそれはそうあるべきはずの肺臓にじかに空気孔を作ることができるはずだ......(ウィリアム・バロウズ裸のランチ』185頁)

 

 最近はと言えば体調不良に悩まされ続け、その不安が重く精神にのしかかる日々が続いている。数年前に過呼吸の発作を起こしてからというもの、自分の身体は信頼できるものではなくなった。要は「意識」と「身体」が分裂し、身体は意識の管理下に置かれ常に監視されていなければいつその不具合を引き起こすかわからない状態なのである。そうしてバロウズが述べるように、役割として固定された己の身体を構成する非能率的な器官を恨むのである。ドゥルーズガタリは「器官なき身体」を獲得するにあたって取り払われるべきなのは意味性と主体化の集合であるとしている。「器官なき身体とはである」という言葉にあるように、未分化の「卵」のような流動性や未確定性を獲得したいと願うばかりだ、そうすれば身体から、延いてはこの社会から生じる不安も消えるのではないか......。

 

 厚生労働省が毎年発表している「自殺対策白書」によると最も多い自殺の動機(特定可能な中で)は「健康問題」である。そのほとんどは「うつ病」であるが、自分はパニック障害による過呼吸を患うまで「うつ病」というものをあまり理解していなかった。当時、頻発する過呼吸の発作に耐えきれず、初めて心療内科で診察を受けた日のこと、パニック障害うつ病を併発することが多いから気をつけろと言われた。しかしすでにいつ発作が起こるかわからない、何が発作の原因となるのかわからないというこの病気に対する恐怖心は生活の質を著しく低下させており、仕事、遊び、移動、睡眠、あらゆる物事において「不安」を頭の片隅に置くことなく実行することができなくなっていた。そうしてすべての歯車がかみ合わなくなり、夜も眠れず、精神も体も疲弊し、休日も抗不安剤でうつらうつらとすることが増えた。しかしそんな状態がマシとも思えるほどに発作の苦痛は酷く、これから先の人生、いつもこの苦しさと恐怖に耐えてゆかなければならないのかと考えたとき、はじめて「自殺」する人の気持ちが理解できた。生存しているという状態が苦痛でしかないというのはここまで苦しいのかと痛感したのである。その後は治療の甲斐もあって今では随分と復調したが、現在でも体調不良に起因する(頭痛、腹痛など)ストレスにより発作を起こしそうになることはある。むしろ冒頭で述べたように最近はまた悪化しつつある。ただそうした身体の不調と折り合いをつけて生きていかねばならない。

 

 しかし最近みたNetflixのアニメ『ミッドナイト・ゴスペル』は最高だった。1話はゾンビ化してゆく人々から主人公たちが逃げる話なのだが、最終的に噛まれて自らもゾンビとなる。しかしゾンビ化した後の、穏やかな世界に歓喜して歌う、主人公は「器官なき身体」を獲得するのだ。

ゾンビは最高だ

やることもやられることもない

シンプルだ

僕らはゆっくりと動く

走る必要がないから

愛から逃げるのに走る必要があるかい

人生という檻の鍵を見つけた

ゾンビに噛まれることで

 この世界を「檻」と捉え、死をそこから解放するための「鍵」と捉える。 別にいま死にたいわけではないが、こうして死がもたらす救済の意味について理解する体験を重ね、「死」そのものの否定性を取り払って生きることは悪いことでないはず......。