ポスト真実の時代

ポスト真実の政治』という言葉がある。

その意味について、Wikipediaによると次のような記載がある。 

政策の詳細や客観的な事実より個人的信条や感情へのアピールが重視され、世論が形成される政治文化である。

昨今、SNSの発達がもたらしたものは、客観的な事実よりも個人的且つ感情的な意見がより世論に近いものとして作用する、不確実性の高い『ポスト真実の政治』的な世の中である。

例えばTwitterに於ける「炎上」もその実態は不確実な要素によるものが多い。犯罪行為やガイドライン違反など、火の元となる明白な事実があるならまだしも、個人的な意見としての社会通念上許されるか否か、つまり「常識」的に間違っているという指摘に対する単なる「共感」によって世論が形成され、炎上に繋がっているのである。

それは行き過ぎたポリティカル・コレクトネスやフェミニズムに於ける議論でよく見られる光景ではないだろうか。

※直近では『宇崎ちゃん献血ポスター問題』や『ライブライブ!みかんPRポスター問題』などの、いわゆるツイフェミ vs アンチ・フェミニスト表現規制問題や『あいちトリエンナーレ2019 中止問題』の保守 vs リベラルの問題などが挙げられる

 

我々はこのような議論の対象になるような「異物」を目の前にしたとき、まず何に従ってそれが正しいのか不適切なのか判断するだろうか、おそらくは自分のポリシーに照らし合わせるはずである。だが、そのポリシーを形成するものは一体何なのだろうか。正しい答えは存在するのだろうか。

 

若木民喜の哲学漫画『ねじの人々』では「答え」について以下のように語られる。

誰がどこから見ても疑いのない答え。好み、時代、知識に左右されない絶対的な回答。そんなものは存在するんだろうか?

 この問いに対して、主人公は無言のままである。ただ、追ってこう語られる。

 君に知って欲しかったのは世の中の「答え」がいかにいいかげんかということだ。

 

きっと絶対的な答え(真理)などはない。ニーチェの言葉を借りるなら「あるのは解釈のみ」である。ただ、『我々は 頭のネジを回してコギト(考える人)になる必要がある』と、この漫画では語られる。

 

いま、曖昧な空気が世の中に蔓延している。そしてそれが曖昧な常識を形成しつつある。そんな常識が思考の根拠となるのはとても危険ではないか。ならばこの空気を押しのけて生きるためには「思考」して確固たるものを獲得するしかない。つまりすべての感情を支配下に置いて「考える人」にならなければならないのだ。このブログで自分が追い求めてゆくのは、軽率な共感を捨て、曖昧なものに惑わされない生き方をする為の筋道を見つけ出すことである。ということで毎回ひとつのテーマを取り上げて、自分なりの筋道を共有できればと思う。