パノプティコン化するテレワーク

ある都市でペスト発生が宣言された場合に採るべき措置は、十七世紀末の一規則によれば次のとおりであった。

まず最初、空間の厳重な基盤割りの実施。つまり、その都市およびその《地帯》の封鎖はもちろんであり、そこから外へ出ることは禁止、違反すれば死刑とされ、うろつくすべての動物は殺され、さらにその都市を明確に異なる地区に細分して、そこでは一人の代官の権力が確立される。それぞれの街路は一人の世話人支配下におかれて、その街路が監視され、もしも世話人がそこから立去れば死刑に処せられる。指定された日には、各人は家に引きこもれと命令され、外出が禁じられて、違反すれば死刑。世話人自身がそれぞれの家のとびらを外から閉めに行き、その鍵を持ってきて地区担当の代官に渡す、と代官は検疫の四十日間の終わりまで、鍵を預かる。(中略)

感染か、もしくは処刑か、なのだ。

ミシェル・フーコー著『監獄の誕生-監視と処罰-』

 

バタイユによるとエロティシズムというものは設定された「禁止」を「侵犯」することによって生じるものであるらしい。

労働社会に於いて、組織は様々なルールによる「禁止」を制定している。セキュリティ、衛生面、円滑な人間関係の構築......例えば「私用デバイスを仕事に使ってはならない」「直帰は18時以降に限る」「仕事中に関係のないWEBの閲覧は禁じる」など。このように、ルールというものは組織である以上当然定められるべきものである。これらは秩序を保つためには必要なのだ。

しかし、人はそれを「侵犯」することに欲求を抱く。

不倫、ハッキング、万引き、窃盗etc....人はそれらにリスクがあることを承知の上でその禁忌を冒す。つまりはこのように一時的にこそ「禁止」を解除する行為こそがエロティシズムの源泉であるとしている。欲求はそのようにして生まれる。

 

現代社会に目を向けてみる。今現在、我々がリスクを承知で設定された「禁止」に対して「侵犯」しようとしていることは何か、それは外出である。猛威を振るうコロナウイルス(COVID-19)から身を守るべく「Stay Home」という標語に則った外出の自粛、そしてそれがテレワーク(在宅勤務)実施者にとって「サボる」ことへの欲求に繋がっていくのは当然の帰結である。

 

パノプティコン

イギリスの哲学者ジェレミーベンサムが考案したとされる一望監視方式、通称パノプティコンというものがある。誰しも一度は耳にしたことがあるであろうこの有名な監獄システムは現代に合わせた姿となり、この急遽出現したテレワーク社会にも浸食している。

 

パノプティコンとは監房を円形状に配置し、中心に監視塔を建て、そこから監視官がぐるりと見渡すように各監房を監視できるようにした刑務所のことである。

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 このシステムが優れている点は、常に囚人を監視する必要がないというところにある。監視されている可能性があるだけで十分なのだ。囚人は実際に監視されているのかいないのかそれを察することはできない。つまり「監視されているかもしれない」という状況は「監視されている」状況とほぼ等しい関係となり、囚人が悪事を働く可能性はかなり低いものとなる。

パノプティコンは権力の主体を人から建物の構造へ移し替えることで権力を自動化し、永続させる装置(機械)へと変えている。これが権力の没個人化である。さらに恐ろしいことに、この装置は権力の行使者という点で代理をたてることを可能にしている。つまり監視しているのが政治家だろうが署長だろうがはたまた子供であろうが、発揮される力(監視が囚人に及ぼす影響)は不変なのである。

 

パノプティコン化するテレワーク

本題に戻ると、テレワークもこの原理を利用したものになりつつある。というのも配布されている社用PCは大方ログを取得する監視ツールがインストールされており、情報システム部門は常に社員を監視できる状況にあるからである。

先日取引先からのメールマガジンで紹介されていたテレワークのための監視ツールは、社員のPC画面をリアルタイムで録画及びモニタリングし、業務に関係のないサイトの閲覧や不必要に長い離席などを監視できるものであった。これだけ見るとぞっとする話であるが、実際はどうだろうか、確かにツールによる監視はしているかもしれないが、実際にはそれを誰も見ておらず、取り締まっていない可能性もある。つまりパノプティコン同様、社員に対していつでも監視されているのだと伝えるだけで同様の効果が発生するのである。つまり社用PCが監房となり、監視ツールが監視塔となるのである。そしてサボることを禁ずるという権力を行使するのはテレワークという仕組みである。上司が物理的に遠く離れていたとしても発揮される権力は一切不変であり、むしろ自動化すらもできるのである。

 

空気のように漂う権力

「権力」という言葉を聞くとどうしてもネガティブなイメージが付きまとう。それは太古の昔から一部の人間だけが発揮できる強大な力であり、マルクス主義の下では排除すべきものとしてプロレタリアから敵視されてきたものだからである。しかしフーコーはこのように権力を歴史的な視点で捉えるのではなく、ニーチェの「パースペクティヴ主義」的な視点でもって捉えるべきだとしている。パースペクティヴ主義というのは真理を主体から離れたもの(形而上学的な問い)とするのではなく、すべての真理はそれを語る者の視点から考えなければならないとする理論である。フーコーこの視点を権力の考察に取り入れることで独自の視点を生み出したのだ。それは権力というものは常に主体の内部から発生し、日常に張り巡らされているとする考え方である。例えば親と子や教師と生徒、上司と部下の関係など我々の生活のすみずみにまで権力は及んでいるとしている。一例を挙げると、新入社員は上司から教育(行動の強制)されるが、そうして獲得した知識や技能は数年後、今度は自分の部下に対しての教育として権力が発揮される。このように人々は簡単に権力を受け止め、また行使している。権力はどこにでもあり、空気のように漂っているのである。

 

パノプティコン的社会

学校という場であればより簡単にパノプティコン的な権力の発揮が可能である。例えば試験中、試験監督は受験者全員から見えないところ、つまり後ろに居ればよいのである。そうすれば受験者は不正のしようがない、なぜならすぐ後ろで見られているかもしれないからである。当然試験監督が後ろにいるかを確かめるために振り返るわけにもいかないので、簡単に不正を防止できるのである。

さらにこの仕組みは国家にも応用可能である。ジョージ・オーウェルディストピア小説1984年』などはパノプティコンを取り入れた社会を描いていると解釈できる。テレスクリーンと言われるモニターが常に人々を監視し、またそこから指示を出し、行動を強制している。そのようにして主人公のウィンストン・スミスは監視され、さまざまな「禁止」の中で生きていたからこそ欲求を抑えきれず禁忌を冒してしまったのだ......。

そしてテレワークを行う我々2020年の現代人もまた、監視から逃れる術を模索して欲望を満たそうとしている。どうせ監視などされていないと高を括り堂々とサボるのも、ウィンストン・スミスのように監視の脆弱性を見つけてこっそりとサボるのも自由である。ただし実態はどうであれ、監視(己の中に居る監視者も含む)と闘うこと、そしてサボりたいという欲望に抗うことはできないのだが。目に見えない権力はこうして我々を苛ませる。コロナウイルスがもたらす確変は果たして痛勤電車からの開放か、それともパノプティコンによる監視社会だろうか。それは「感染か、もしくは処罰か」と言い換えることができるかもしれない。

 

監獄の誕生〈新装版〉: 監視と処罰

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エロティシズム (ちくま学芸文庫)

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